緑って何だろう ~緑と生きる人間に聞く~

第2回は練馬区大泉町で体験農園を経営される「白石農園 大泉 風のがっこう」の白石好孝さんに、体験農園を開園するまでの経緯や農業者としての立場から、東京の緑の将来像について語っていただきました。

農を伝える場をつくり、都市と農村のネットワークを考える

~白石農園 大泉 風のがっこう 白石好孝氏~
東京の農地をとりまく状況が大きく変化する中で
横張:
体験農園を始められた当時の状況を教えてください。
白石:

うちは300年前から代々引き継いできた農家です。明治生まれの祖母から「おまえが後を継ぐんだよ」と言われて育ち、当然のように農業高校、大学へと進み、農業を始めました。一方で高度成長による都市化が進み、昭和43年に施行された新都市計画法により、練馬の農地も市街化区域に組み込まれます。農業をするより、土地を売ったお金で家を建て替えたり、資産活用をした方が効率がよいという考え方が出てきました。野菜作りが面白くなってきた30代半ばにはバブルの絶頂期が訪れ、地価高騰の原因は都市近郊に農地が残っているからだ、というバッシングもおこります。しかし、純粋に農業を続けてきた者にとって、農地は生産の場。世襲で引き継いできた農家には、「農地は預かり物」で次世代へ繋げていくのが仕事という概念があります。

 そのジレンマの中で、平成4年に生産緑地法が施行され、今後30年間農業をやり続けるなら生産緑地に指定、それ以外の農地は宅地化農地として税金が高くなる、という選択を迫られました。振り返ってみると、新都市計画法施行後、土地を資産運用した人が残っているかというとそうでもない。儲からない農業をコツコツやっていくのも賢明な選択ではないか。そう考えて、生産緑地を選択しました。甘い誘いや制度の締め付けの中、一番揺れ動いたのはこの時でしたが、おかげで自分の中にひとつの区切りがつけられたと思います。

 その当時、農家と周囲の住民とは、ある種の敵対関係でした。収穫した野菜は市場へ出荷され、畑は有刺鉄線で囲われている。そうすると地主と住民の間になんとなく距離ができて、埃が飛んでくる、農薬が通行人にかかったという苦情が区役所へ寄せられていました。このような違和感の中で、今後30年間農業を続けるのであれば、この地域にどのような農業が合っているのか考えなければ、と思うようになりました。地域の人に食べてもらえる直売にすればいいのではという考えが浮かび、更には畑に来てもらうような農業はどうだろう、と。友人の加藤義松さんも同じようなことを考えていて、野菜作りのカルチャースクールは?授業料を貰う菜園にしたら儲かるかも、と提案してくれました。

都市生活者と農をつなぐ場としての体験農園
横張:
体験農園を始めるのは大変でしたか。
白石:

当時、区では農地を無償で借り上げ、市民農園として無償で提供していました。しかし、借りるのは無償でも整備などに結構予算を使っているとのこと。そこで、市民農園みたいなカルチャースクールを運営するから補助金を出してもらえないかと頼んだら、昔から付き合いのある区の担当者が「いけるかもしれない」と身を乗り出してくれたのです。
 しかし農地法の規制や税制上の問題があり、安定した農業経営として成り立つかという課題もありました。これをクリアするために、加藤さんと区の担当者と3人でいろいろと研究し、開園にこぎつけるまでに5年かかりました。

 現在、「風のがっこう」には125区画あり、常に満員です。1度契約すると5年まで継続でき、8割以上の人が継続するので、空きが出るのは年に20~25区画ほどですが、これに対して90ほどの応募があります。練馬区内には15ヵ所の体験農園があるのですが、いずれも平均倍率は4倍位と人気のようです。区が経営している格安な市民農園は、野菜作りをしたいという60代以上の方がメインで、指導付きの体験農園は、新鮮で安全な野菜を食べたいけれど自分では作れない、という未経験者や若い人が多いという特徴があります。都会で生まれ育った若い世代は、自分が食べる物を作ることに新鮮な興味を覚えるようです。
 体験農園で基本を学び、いつの間にか市民農園の先生になっている人もいます(笑)。長野と静岡で新規就農した人もいました。そのうちの1人は、雑誌の編集をしながら「半農半X」で生活しています。

横張:
新規就農を考える若者には、どのようにアドバイスされますか。
白石:

農業がどんどん高齢化し、新規就農者は必要とされていますが、現実には職業としての農業はなかなか大変です。自然を相手に高い技術が必要。農機や施設などの投資が必要。新規就農者の多くは有機農業を目指しますが、実際は相当な苦労を伴います。虫や病気との闘いで収穫量が極めて少なく、数年で諦めて都会に帰ってくる人も多い。経済的に生活を維持し、一定量の食糧を国民に提供できなければ農業(産業)とはいえないと思いますが、有機農業は産業にはなりにくいのです。

 有機農業を目指すのであれば、専業農家にこだわらず、他の仕事と兼業する「半農半X」という暮らしもいいでしょう。専業農家から体験農園の野菜作りまで幅広い選択肢があり、誰もが何らかのかたちで自分の食を維持していく過程に触れられるといいと思います。

震災が気づかせてくれた、農の知恵、農の遺伝子
横張:
今回の震災でライフスタイルを見直す動きがあると思うのですが、農業を続けてこられた立場から、どうお考えですか?
白石:

農業の歴史は、前例のないものとの遭遇の繰り返しです。台風で壊滅的な被害を受けたら、もう来年に期すしかありません。日本人は災害も農業の一部と考え、2000年間農耕を続けてきました。自然災害とは付き合っていくしかない。それが百姓の知恵のひとつです。このような大災害の時に試されるのが、農耕民族としての潜在能力だと思います。亡くなった方々の分まで生き抜こうというひとりひとりの想いが、戦後の日本を豊かにしてきたのです。そういった農耕民族の遺伝子みたいなものが発揮されるのではないないでしょうか。

震災が起きた時、私は2つのことを考えました。1つは「風のがっこう」の講座を開催するかどうか。どんなことがあっても種をまき続けるのが私たちの仕事で、そうしないと結果に結び付かない。こういう時ほど種をまかなければ。そう考えて開催することにしました。もう1つは、避難場所としての農地の役割です。地域の方には、災害がおきたらとりあえずここに避難するようにと言っています。倒壊の心配もないし、井戸があるから自家発電さえすれば水も手に入る。そのへんの野菜を食べていれば、救助がくるまでの2、3日の間、しのげるでしょう。そういう観点からも、練馬に農地が残る意味があると思っています。

 今回の災害で気づかせてくれたのは、都市と農村のネットワーク作りの重要性です。私たちは今、農村との交流を通して、遠い親戚作りをしませんか、という提案をしています。農村の農家民宿に泊ったり、余暇を農村で楽しんだりしながら、農村との持続的なつながりを作る。都会の暮らしと両立させながら、農業にふれる機会をつくると、生活が豊かになり、心の中にゆとりや安心が生まれます。そういう関係が築かれていれば、いざという時には互いに思いをはせ、手をさしのべることができるのではないでしょうか。

白石好孝(しらいし よしたか)プロフィール:

1954年4月1日生(農業)
1977年4月 東京農業大学農学科卒
1979年   就農
東京都練馬区で300年続く農家。経営面積130アール。
農業体験農園「大泉 風のがっこう」を運営するとともに約40種類の野菜を生産。
庭先販売、学校給食、直営レストラン、JA直売所、スーパー等で販売している。

◇事務局編集後記◇
私の自宅から近い場所に白石農園があるにも関わらず、仕事で関わるまでその存在を知りませんでした。農業に興味がある方でも身近な農地を知らない方も多いのではないでしょうか。就農希望の若者が増えている昨今、白石さんは半農半Xという生き方を勧めます。生活の一部として農業を取り入れるライフスタイル。東日本大震災を経験した私達にとって、最低限の自分達の食べ物は自ら生産する。そんな一人一人の意識改革が求められているのではないでしょうか。農業に関する体験談やご意見などございましたら是非お気軽にお寄せください。