あの町 この町 みどり探訪

未来の子供達へ・・・関さんの森

千葉県松戸市幸谷にある関家は、江戸時代に名主として続いた名家ですが、敷地は建物や庭、緑豊かな屋敷林を含め、2.1ヘクタールにも及びます。今は敷地一帯を「関さんの森」と呼んでいるそうです。取材の第二弾は、この土地の所有者(一部はすでに外部に寄付)である関 美智子さんに直接お伺いし、マスコミにも大きくとりあげられたこの森の守られ方をリポートします。

この森が守られていく状況をお聞きすると、先代が亡くなったことによる土地の相続問題と敷地を分断する都市計画道路の建設問題が大きく関わっていました。特に後者の問題は、社会を巻き込んでの大騒動に発展し、開発の進む都市近郊での緑の保全のあり方について、 一石を投じた事件でもあったようです。

関さんの森とは

1995年に(財)埼玉県生態系保護協会に寄付した屋敷林 (1.1ha)や関家の庭・隣接する梅林・農園・広場など を含めた全体(2.1ha) を「関さんの森」と呼んでいます。 全体が人の手によって維持されている畑や梅林、屋敷林です ので、持続可能な環境づくりに貢献する里山の一形態ではない でしょうか。

屋敷内には、江戸時代に建てられた門や蔵、樹齢200年以上の木々や、人々の信仰を支えてきた権現さま(熊野権現)(はてな?1)などがあります。

◎はてな?1 熊野権現って?◎

熊野権現は地域の豊作を願う水の神様であり、また風邪の神様。小さな祠(ほこら)なんだよ。昔は地域の人がよくお参りにきたり、地元では「おくまんさま」と呼ばれて、風邪の神様とされていたんだ。全快を祈願して願いが叶ったらサンショウの木を植えていたんだって。

森が守られるまで
この森が引き継がれていくための第一の関門は、土地の相続問題でした。
◆相続問題

先代は都市化が進む中で、子どもたちにのびのびと遊んでもら おうと、屋敷林の一部を40年以上も前から「こどもの森」(1.1ha) として開放してきました。しかし、1994年に先代が亡くなったことか ら、後継の関 美智子さんと啓子さんは莫大な相続税に悩みます。 これまで地域の人たちに愛され活用されてきたこの森をなくしたくな い、父の意志と思いを引き継ぎたいと、自然保護団体に寄付するこ とを決断しました。

ですが、寄付といってもどこでも良いというわけにはいきません。 非課税になる行政や一定の法人でないと、譲渡所得税がかかりま す。税金がかからずにこの森をそのままに維持しておいてくれると ころ…そんな時、㈶埼玉県生態系保護協会が「自然をそのままに 残すことが目的であり、人工的な公園にはしない」と手を差しのべて くれました(エピソード参照)。当時はナショナル・トラスト(はてな?2) だ、と騒がれたりしたそうです。こうして屋敷林であった「こどもの森」は、「関さんの森」と呼ばれるようになり、永続的に守られることになりました。地主さんの善意の賜物と言えます。

◎はてな?2 ナショナル・トラストとは?◎

1895年、イギリスにおいて民間の歴史的建造物や自然の保護のために設立されたボランティア団体のことだよ。国民のために国民自身で、優れた美しい自然地域や歴史的建造物などを寄贈、遺贈、買い取りなどで入手し、永久的に保護管理することを目的としているんだ。 日本では1970年代における北海道知床の「知床100平方メートル運動」が有名だね。

◎エピソード◎

どうして千葉県のことなのに、埼玉県の団体へ寄付?
税の対策を考えると、寄付によって課税されないことを考慮しなければなりません。そうすると寄付先は、自治体や特定公益増進法人が対象となります。関さんは、千葉県内の自然保護関係の特定公益増進法人を探しましたがありませんでした。さらに全国規模で活動している団体を探して寄付を申し出ましたが、受け入れてくれる団体はありませんでした。唯一、寄付を受け入れてくれたのが、(財)埼玉県生態系保護協会でした。

二つ目の関門は、道路建設問題でした。
◆都市計画道路3・3・7号線問題

1964年に関さんの敷地を通る形で、都市計画道路が決定されました。この道路は、区画整理事業とかかわっていますが、 建設については要、不要論が巻き起こり、1976年に は松戸市議会に関連する複数の陳情が出された中、 幸谷地区については、地下に道路を通す(地下化)陳情が議会の全会一致で採択されました。 その後10年間、動きが止まったため、再度市議会 に地下案による道路の早期開通を求めた結果、「早期 開通」だけが採択されるという事態になりました。

◎はてな?3「関さんの森を育む会」とは?◎

相続問題の翌1996年、こどもの森の維持管理活動を中心として地域住民(地域と言っても範囲は広い)の中から「関さんの森を育む会」が誕生したんだ。月に2回ほど下草刈りや剪定作業、散策路整備などの維持管理を主に、自然観察会やタケノコ掘り、野草の天ぷら、そうめん流しなどのイベントも開催しているよ。現在の会員数は200~250家族ほど。
「関さんの森エコミュージアム」のブログ

その後、1988年になって市は建設コスト等の比較から、地上道路での建設を決定。事業認可をとって、道路用地上にある水道局の移転や、関さんを含む複数の地権者と道路用地取得に関する交渉に入りました。関さん宅では、1994年に先代が亡くなり、1995年に屋敷林部分(道路用地にはかからない)を(財)埼玉県生態系保護協会に寄付。1996年に「関さんの森を育む会」(はてな?3)が誕生しました。

しかし、道路用地上の水道局の移転問題等が解決しなかったため、市は事業認可をたびたび延長せざるを得ませんでした。その後、水道局の移転が決まり、市が取得できていない道路用地は、関さん所有の193mを残すだけとなり、2007年には、市長が暫定道路案として迂回道路の案を地権者に提示しています。しかし、関さん達は、市長が提案する暫定道路案では環境との共存はできないとして、これを拒否。これに対して関さん達は既存道を活かす代替案を提示しましたが、市はこれを不同意としたほか、暫定の迂回案をも撤回し、完全に対立が深まりました。

その後、2008年2月には、市はとうとう強制収用の手続き(申請)を始めました。同年7月には市長は収用手続き着手の最終判断を行ったため、にわかに新聞、テレビが注目、大々的にことの成り行きが報じられました。こうした事態に、関心ある弁護士や学識経験者が関与するようになり、強制収用ではなく、話し合いによる解決を訴えました。また、地権者側を応援する団体がシンポジウムやフォーラムを行い、さらに市長宛に意見書等を提出しました。市側にとっては決して好ましい展開にはない空気に包まれたものと推察されます。

こう着状態が続くなか、11月21日に開催された里山フォーラムの実行委員長であった千葉大学中村名誉教授が松戸市長と関さんの間に入り、なおかつ12月3日に市長と関さんの直接対話が実現したことにより、融和の兆しが見え始めました。市側は早期開通のためには道路が直線であることにこだわらない、との認識を示したのです。このことから2009年2月5日、暫定ではあるものの、敷地の庭を通らない迂回道路案で両者はようやく基本合意に至り、収用手続きは中断されたのです。

注)道路建設問題については、このほかにも関さん側と市役所側のやりとりが行われています。それぞれの立場からすれば正確ではない面もあり得ようかと思いますが、記事の都合、大まかなストーリーとしてご理解ください。

関さんの森の魅力

関家の屋敷内には江戸時代に建てられた門や蔵、熊野権現や樹齢200年以上もの木々があります。2つの蔵の中には昔の生活道具や古文書が保管されています。古文書はすでに200点が松戸市立博物館に保管されています。今は専門家によって調査されていますが、1つの蔵には味噌や漬け物などが貯蔵されていました。今でも100年物の梅干しがあるそうです。

◎はてな?4 ケンポナシとは?◎

クロウメモドキ科の植物で、実を食べると梨のような味がするんだ♪でも、食べるところは丸い実ではなく、実のついている軸(小枝)の部分なんだよ。ここが秋になると太って、甘酸っぱくなるんだ。ケンポナシは西日本に多く、千葉県での200年以上の古木は大変珍しいもの。だけど、その200年の間に台風や落雷のために途中で折れてしまったんだ。

樹齢200年以上の木々にはケンポナシ(はてな?4)、 キリシマツツジ、樹齢100年以上ではエノキ、ケヤキ、などがあります。エノキや ケヤキは暫定道路予定地にあるために、130トンのクレーンを使い、移植しました。落雷によって幹の内部が焼けて皮だけになっているケンポナシは、立ったまま地上を15mほどひっぱって移植します。 道路建設にあたり、ほとんどなくなってしまうのが梅林です。当初、道路用地上の178本の梅の木はすべて移植するつもりでした。しかし、このあたりの地下には中世の遺跡が存在していることが明らかになり、埋蔵文化財調査のために、22本の若い木のみを移植しただけで、残りはすべて伐採することになってしまいました。

ケンポナシ
落雷で割れたケンポナシ
関さんの森を通る道路の最終合意ルート
関さんの森を通る道路の最終合意ルート
◆ 緑の保全を考える ◆

関さんの森では、蔵や門のある庭や、梅林、広場、農園などを含めて “森”と呼んでいます。すでに寄付されている屋敷林(旧こどもの森)本体は、道路計画もひっかからず、安泰なのですが、関さんの森ではエコミュージアム(自然体験や環境学習の場)として文化的価値を敷地全般に見いだしているところに特徴があります。「森を守る」は、都市では必ずしも緑そのものだけではないという代表的な事例と思われます。 守られたプロセスから見れば、市側が都市計画に基づいて合法的な行動をしているにもかかわらず、緑の保全問題で市民運動に包囲された構造になってしまったようです。でもこれは今の時代、社会の正常な反応かも知れません。こうした反応を市が想定していたかはわかりませんが、相互に求められる価値観を早く共有化できていれば、もっと早く対話が進み、相互の労苦が小さくなっていたかも知れません。

しかし、この問題の原因が企業デベロッパーであったとしたら、どうでしょう。法に基づく開発の正当性だけでなく経済活動の自由と自然環境の保全が対立するのは目に見えています。一般的に裁判という場に持ち上がるため、時間や労力、経費がかかるのも特徴です。もっと難しい局面になるでしょう。緑の保全は、所有者の意思が大きいということ、また誰と誰が利害の構図に入るかによって展開が大きく左右されていくもの、ということを忘れてはなりません。